殉じるということ

叛逆の物語特有のあの「逃げ場の無さ」ってなんなのかなあ。。と考えてみる。それこそ「もう決して離さない」的なあの引力。

想うに、ほむらの一連の行動は一言でいえば「まどかへの愛に『殉じた』」ということ、だ。なかなかこの「殉じる」という言葉が出てこなかったのだが、どうやらこの言葉が一番ぴったりくる。
殉じる、とは生きがいであると同時に死にがいであるものを自ら定めることだ。そして人が「何に殉じるのか」を決めた瞬間に、それまでの出来事の意味はほとんど消滅する。人は多分この時点で一度死ぬ、のだ。
殉じるということにはそれほどの魔力がある。
叛逆の物語は「人が殉じる姿を描く」。そこでは最終的に幸福か?不幸か?という問いは無効のものとなる。唯「殉じる」という意志のみが存在する、そんな世界。

言うまでもなく、人はいつの日にか「自分が何に『殉じる』のか」を決めなければならない時が来る。
一番多いのは、愛する者に殉じるという人だろう。暁美ほむらも例外ではない。
次からいきなり少数ではあるが、組織とか国家とか職業とかの「場」に殉じる人。会社の創業者とかにはこういう人もいたりするわけで。
まあ、大体はこのどちらかなんだろうけど中にはそのどちらでもなく自分の中にある抽象的な概念ー例えば「未来の世代」とかーに殉じる事を選ぶ人もいるのかもしれない。

今が幸せであろうが不幸であろうが、「自分が何に殉じるのか」を選択しなければならないことからは誰もが不可避、だ。
この問いは、普通に生きている分には認識される事はほとんどないが、誰の身にも平等にその答えを出さなければならない日は必ず来る。

繰り返すが、叛逆の物語は人が殉じる姿を描く。
あまり描ききることのできないこのテーマを。

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