清浄なる休日

暁美ほむらは、自らに「罰」を与える事を決めた。
無論、ほむらは自分の決定に微塵の迷いもなかったが、人の身でありながらそれを超えた力を備えた現在の状況を安定させるためには、そのプロセスが必要だと考えた。
それというのも、度重なる円環の理からのまどかへの誘いとは、ほむらにとっては自分の魔力の綻びに他ならない、からである。

人間の感情の極みから「魔なる者」としてこの地上に君臨した者は過去に他にもいたのだが、たいていの場合は魔の波動に耐えきれず自らの精神を崩壊させてしまっていた。
ほむらは、まどかをこの地上に引き戻すにあたり如何なる犠牲も払う覚悟があったが、まどかへの想いを自分自身が認識できなくなることは論外である。
自らはより強力な魔力を定着させながら、その人格は均衡を保つ。
この二律背反を現実化するには「秘儀」が必要であり、それは人間がいうところの「罰」の姿と酷似するものだった。

ほむらは月に1度学校を休み、その意識を自らが再誕した因果の果てに飛ばす。
悪魔の姿となってダークオーブを現界させ、それをもう一度因果の糸巻きに還元する。
そうしてから、今はもう人格のない円環の理を召喚した。

それは確かに鹿目まどかの姿をしているものの、過去にそうであったように慈しみの心を持つものではなく今は一つの「原理」そのものである。
ホムシフェルは円環の理と向き合うと、自分の意識を肉体から分離し、この原理に集中させて意識のみを一体化し、その双眸から自らの姿を見つめる。
その瞬間、後頭部の辺りから全身にかけて激しい疼痛が広がった。

それは、全ての生きとし生けるものが持つ「生命の毒性」である。
悪魔ともなれば、この毒性は人間の何倍も純度が高くそこから生まれる痛みも激しい。悪魔ほむらはあまりの痛みに弛緩して円環の理の前に跪いた。この秘儀を目撃したものはこの宇宙にはいなかったが、もし第三者がこの光景を見れば、その姿から「懺悔」を連想したに違いない。勿論実情は大きく異なり、暁美ほむらには自らの罪を悔いる想いなど毛頭なかったが。

ほむらを襲う激しい疼痛は、この宇宙と整合性を保つために自分自身が生み出したものだったが、ほむらはそれを「もの言わぬまどかの責め苛み」だと倒錯して解釈した。そうする事によって、ほむらはすすんでこの恐ろしい痛みを受け入れ、魔なるものの波動の中にあってさえ正気を保ち得たのである。

一体どれほどの時間が過ぎ去ったのかわからない、がほむらは自分の生み出す毒と自分の翼のある肉体が調和し痛みが一旦消え去ったことを認識して、月に一度のこの秘儀はひとまずお開きとなった。
再びダークオーブを手にしたほむらは、その翼で見滝原に帰還する。

誰の目に触れる事もない秘儀ではあったが、誰の目にみても明らかな事が一つあった。
暁美ほむらは、この秘儀を繰り返す度にますます美しくなっていったのである。

ウチのQB談
「なるほど、君がなぜ『ほむまど派』ではなく『まどほむ派』なのか、これではっきりしたよ。」

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